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竹尾ポスターコレクション・ベストセレクション10
ノイエ・グラーフィクとその時代:グラフィックデザインの新潮流1958–1965


会場:多摩美術大学 八王子キャンパス アートテーク1F
会期:2016年6月3日(金)~6月24日(金) 10:00–17:30
企画:ポスター共同研究会 
主催:多摩美術大学 共催:株式会社竹尾


会場配布リーフレット[1]


会場配布リーフレット[2]


ノイエ・グラーフィク誌は、1958年から65年までの7年間・
17号というごく短い発行にもかかわらず、日本を含め、
世界的な影響力を持った


1958年9月、スイスから国際デザイン誌『ノイエ・グラーフィク』が創刊された。第2次世界大戦の終戦から10年あまりが経過し、世界が進むべき未来を見定めようとしていた時代に登場したこの伝説的雑誌は、1965年までの7年間・17号というごく短い発行期間にもかかわらず、日本を含め、世界的な影響力を持った。
 本展は、ノイエ・グラーフィク誌の編集制作に携わった4人のデザイナー──リヒャルト・パウル・ローゼ(1902–88)、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン(1914–98)、ハンス・ノイブルク(1904–83)、カルロ・ヴィヴァレリ(1919–86)の仕事を基軸に、その周辺のデザイナーの作品をあわせて竹尾ポスターコレクションから選定し、構成したものである。

編集制作に携わった4人のデザイナーは、デザインの社会的
価値を信じる点で情熱的だったが、それを客観性や合理性に
結びつけようとしていた点で、理知的であり冷静だった


理念としての構成的グラフィック
ノイエ・グラーフィク創刊当時の4人の年齢は39–56歳にわたり、すでにそれぞれ独立したデザイナーとして重要な仕事をものにしていた。彼らに共通していたのはチューリッヒを拠点に活動していたという地理的要素のほか、客観性や合理性、機能性をデザイナー個人の主観や感情に優先する構成的デザインを指向していた点にあり、何より重要なことは、彼らの「新しい」デザインが社会の行く末を導くという、一種公共的・啓蒙的な理念を共有していた点にあった。それこそが彼らを結びつけ、雑誌の創刊に向かわせたのである。
 彼らが共有した理念は、ノイエ・グラーフィク創刊号の冒頭に掲げられた連名の「イントロダクション」で端的に示されている。「このアートの新しさは、そのほとんど数学的な明晰さにある」。「現代のデザイナーは、もはや産業に仕える存在ではない。広告のドラフトマンでもないし、あるいはポスター・アーティストでもない。現代のデザイナーは、一個の独立した存在として計画し、創造する。その人格全体をもって情報を伝達する」──。
 彼らにとって、構成的デザインはデザイナーの独立性と不可分の関係にあった。それはデザイナーとデザインの社会性、倫理性を裏付ける価値観でもあった。当然のことながら、この雑誌が掲げた目標は、公共的色彩を多分に帯びていた。「この雑誌はすぐれた才能を紹介するものではない。訓練の場でもない。この雑誌は今日のデザインの動向を伝える場として、またモダン・グラフィックおよび応用芸術について議論する国際的な場を提供することを企図して創刊された」。
 結果として、ノイエ・グラーフィクの誌面と記事内容は、4人のデザイナーが共有した「新しい」グラフィックデザインとその理念を伝える媒体として機能し、戦後のデザインが進むべき方向を指し示すという歴史的役割を果たした。彼らはデザインの社会的価値を信じる点で情熱的だったが、その価値を客観性や合理性に結びつけようとしていた点で、理知的であり冷静だった。

ノイエ・グラーフィクが示した「新しさ」は、客観性と合理性を極限まで押し進めたデザインであり、当時の社会状況に対するまたとない回答として受け止められ、流布した


客観性の重視
ノイエ・グラーフィクの創刊当時は、終戦から間もなく顕在化した東西の対立構造が、はやくも新たな衝突を予見させる時代だった。こうした状況にあって、戦間期にバウハウスやロシア構成主義をはじめとするアヴァンギャルド芸術やモダンデザインが掲げた楽観的な理想主義は、過去のものとなりつつあった。戦争の破壊と恐怖が、人びとに世界平和と人類の共存の重要性をかつてないほど強く知らしめた時代にあって、戦前のモダンデザインはあまりに楽観的だった。当時必要とされたのは、誰もが共有可能な中立の価値観──すなわち客観性や合理性に裏付けられた、感情ではなく事実に訴えるデザインだったのである。
 戦前のアヴァンギャルド芸術、そして彼らに先行して活躍していた戦前からのスイスのグラフィックデザイナーたち──本展では、チューリッヒで活躍し、またチューリッヒ造形学校で後進の教育にあたったエルンスト・ケラー、テオ・バルマー、ヴァルター・ケッヒのポスターを掲示している──の正当な後継者を自認していたノイエ・グラーフィクが示した「新しさ」は、客観性と合理性を極限まで押し進めたデザインであり、当時の社会状況に対するまたとない回答として受け止められ、流布した。
 抑制の効いたタイポグラフィに特徴づけられる表現スタイルは、スイスという永世中立国と結びつけて捉えられることで、「国際タイポグラフィック様式」あるいは「スイス派」「スイスタイポグラフィ」と呼称され、今日のデザインの理論的基盤として発展した。
 エミール・ルーダー(1914–70)、アルミン・ホフマン(b. 1920)、そしてロベルト・ビューヒラー(1914–2005)らをはじめとする優れたデザイナー、教師陣を擁するバーゼル工芸学校もまた、チューリッヒのデザイナーたちと並んでスイス派の存在を世界に知らしめる役割を果たした。

私たちは、50–60年代と同じように客観性や合理性を必要と
しているだろうか? そうでないとしたら、私たちが今、
本当に必要としているものは、何か?


ポスターデザインに見る 「新しさ」
本展で掲示したポスター群、とりわけローゼ、ミューラー゠ブロックマン、ヴィヴァレリ、ノイブルク、そしてバーゼルのデザイナーたちのポスターを見る時、まず驚かされるのはその新しさではないだろうか。抑制が効いていればいるほど、新しさと詩情が増すかのようである。まるで、私たちが結局迎えることのなかった未来がそこに存在しているかのように見えるほどである。
 個々のポスターの表現スタイルには、使用する書体の種類やサイズの抑制、幾何的形態による色面の利用、そして画面に与えられる緊張感など、ある種の共通性が感じられる。だが、それによってデザイナーの個性がそがれているという印象はまったくない。
 このことは、構成的グラフィックにおける客観性や合理性の追求が、個性と併存可能であることを教えてくれる。
 本展で掲示した作品のうち、もっともボリュームを割いたヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンのポスター群は、構成的グラフィックの到達点を示すものである。1950年代にはじまり、およそ四半世紀にわたって制作されつづけた一群のコンサートポスターは、幾何形態を用いたものから、純粋にタイポグラフィックな構成によるものまで、非常に幅広い方法で展開されている。それらのポスターが示す一貫した画面の構成力、明晰さ、力強さ、クオリティは比類ないものである。
 1940年代、すでにイラストレーターとして名声を博していたミューラー゠ブロックマンは、50年代初頭に構成的グラフィックを志し、キャリアを大きく方向転換した経験を持つ。30代半ばで行ったこの転換は、グラフィックデザイナーの社会的責任という職業上の倫理観と公共意識に基づいた、強い決意のもとで行われた。ノイエ・グラーフィクの創刊を思いたったのもミューラー゠ブロックマンだった。名作の誉れ高いこれらのポスター群の背後に横たわる決意は、画面にあらわれた表現と同じかそれ以上に重要である。理念に支えられて生まれた表現ということで言えば、ノイエ・グラーフィクとその周辺のデザイナーの作品も同様である。

構成的グラフィックの現代的価値
構成的グラフィックの冷静な表現は、とかくテクノロジー主導の現代社会によく適合するように見える。一方、構成的グラフィックの背後の理念が現代に適合するかどうかは、くわしく検討する必要があるだろう。私たちは、1950–60年代と同じように客観性や合理性を必要としているだろうか? そうでないとしたら、私たちが今、本当に必要としているものは、何か? この素朴な問いに答えるところから、私たちのデザインははじまるに違いない。(会場配布リーフレット[1]より テキスト/佐賀一郎[ポスター共同研究会])


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ポスター制作者略歴

Josef Müller-Brockmann
ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン 1914–98
ラッパースビル(スイス)生まれ。1930年、グラフィックデザイナー見習いを経て、32–34年にチューリッヒ工芸学校でエルンスト・ケラーとアルフレート・ヴィリマンにインターン生として学ぶ。34年、デザイナーとして独立して以降、生涯を通じてデザイナーとして活動した。50年、最初の音楽会ポスターを制作。以後72年まで続いたこの連作の即物的構成的な表現は具体芸術の援用例として高い評価を受けた。57–60年、ケラーの後任としてチューリヒ造形学校のグラフィックデザインコースの講師を務める。58–65年、『ノイエ・グラーフィク』誌の創刊・編集に加わり、リヒャルト・パウル・ローゼ、ハンス・ノイブルク、カルロ・ヴィヴァレリらと協働。60年に東京で開催された世界デザイン会議に登壇後、日本各地を歴訪、60年代から70年代にかけて日本で教育に携わる。 62–63年、マックス・ビルに招かれウルム造形大学の招待講師を務める。56年から95年の間に世界各地で41回の個展開催。87年、チューリッヒ州文化功労者金賞のほか受賞多数。AGI会員(51年)。

Richard Paul Lohse
リヒャルト・パウル・ローゼ 1902–88
チューリッヒ(スイス)生まれ。チューリッヒ工芸学校で学ぶ。1922年より広告コンサルタントのM. ダーラングと協働(30年まで)。前衛芸術のために数多くの制作や出版を行う。30年、自身のスタジオを開設。40年頃、曲線的な表情豊かな表現から対角と水平と垂直構造を基本とする表現に傾く。42年より絵画の標準化と色彩の定量的なモデュール化に取り組む(–44年)。44年から雑誌『アブストラクト / コンクレーテ』、『シュピラーレ』、『プラン』に共同(–58年)。また47年からは『バウエン+ヴォーネン』誌の編集者兼デザイナー。58年から65年には、『ノイエ・グラフィーク』を共同編集。その他、数多くの国際展へ出品、受賞多数。展覧会委員や審査員、教育機関のゲストなどを務める。87年、R. P.ローゼ基金設立。

Hans Neuberg
ハンス・ノイブルク 1904–83
ボヘミア(現チェコ、グルーリヒ)生まれ。独学でグラフィックデザイナーとなる。チューリッヒで広告関係の修行を積んだ後、1928年、広告代理店マックス・ダーラングにコピーライターとして就職。36年、自分のスタジオを開設。30年代より、彼はポスターやロゴマーク、カタログ、エディトリアルデザインなどを通じて、広く構成的な手法をベースにしたスイスのデザインに、刺激的な影響をもたらしたとされる。50年代には、雑誌『ディ・ヴォッヘ』の編集者(美術担当)をはじめ、『ノイエ・グラーフィク』の発刊に参加。また、スイス国内外での展示デザインも手掛ける。ポスターのデザインでは、3度の年次賞を受賞。本業のグラフィックデザインに加え、絵画、彫刻、美術評論の分野でも活動を展開。

Carlo Vivarelli
カルロ・ヴィヴァレリ 1919–86
チューリッヒ(スイス)生まれ。グラフィックデザイナー、具体芸術家。4年間チューリッヒのスタジオで修行した後、1939年、パリに出ていくつかの学校に通い、ポール・コランにも出会う。1946年、ミラノのスタジオでディレクターを務めた後、チューリッヒに自分のスタジオを設立。バーゼルの「スイス産業展」での装置デザイン、アムステルダムの「街と国づくり展」スイスブースのデザインを手掛ける。また、彼のグラフィック作品はチューリッヒ工芸美術館の「構成的グラフィック」展(1958年)でハンス・ノイブルク、リヒャルト・パウル・ローゼらとともに展示されたのをはじめ、ドイツ、スウェーデン、イタリア、アメリカ、日本ほか多くの国で紹介され、受賞歴も多い。1958–65年にかけて、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン、リヒャルト・パウル・ローゼ、ハンス・ノイブルクらとともに雑誌『ノイエ・グラフィーク(Neue Grafik゠新しいグラフィックデザイン)』の創刊と編集デザインに参加。ヴィヴァレリは同誌創刊号のデザインを担当し、スイスから発信された「新しいグラフィックデザイン」の象徴を生み出した。


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アートアーカイヴセンター | 2016年6月3日


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