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竹尾ポスターコレクション・ベストセレクション11
構成的ポスターの創成 1900–1940:グラフィックデザインにおける創造性と多様性


会場:多摩美術大学 八王子キャンパス アートテーク1F
会期:2018年1月9日(火)~20日(土) 10:00–17:30
企画:ポスター共同研究会 
主催:多摩美術大学 共催:株式会社竹尾


会場風景



この時代のポスターは、多様性のうちに、時代が備えていた創造力の歴史的道筋をも示しています


1900年代から40年代にかけての時代、19世紀に興った産業革命が加速度的に影響力を拡大し、国際経済の規模と速度の拡張、郵便・交通・電信などの都市環境の整備、マス・メディアの影響力拡大、それにともなう教育環境、個人生活の激変など、大きな社会変動が連続的かつ不可逆的に生じていました。

この時代に制作されたポスターは、広告主の経済的な要請に応じることで特定のスタイルを確立したもの、アール・ヌーヴォーのスタイルをとったもの、あるいは同時代の一連の芸術革命を反映したもの、そして印刷技術の発達を伝えるものまで、きわめて多様です。

また、この時代のポスターは、時代が備えていた創造力の歴史的道筋をも示しています。すなわち、キュビスム、未来派から絶対主義、構成主義、デ・ステイルに代表される20世紀初頭の構成的芸術の発達の鍵としての〈幾何学性〉と〈抽象性〉が、やがて産業の要請としての〈機能性〉〈経済性〉と結び付くことでさらなる実行力を獲得し、モダンデザインの確立とその後の発展につながっていく道筋です。

その登場以来、常にポスターは、時代状況を映し出す鏡としてありつづけてきました。この時代のポスターが、総体として、象徴的に映し出しているのは、アートの創造力とモダンデザインの実行力を兼ね備えることで獲得された、時代精神の多様性と創造力といえるでしょうか。(ポスター共同研究会)


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ポスター制作者略歴

Baumberger, Otto
オットー・バウムベルガー 1889–1965
1889年チューリッヒ(スイス)生まれ。グラフィックデザインの分野でスイス派の確立に寄与した数少ないデザイナー・芸術家の1人。ミュンヘン、パリ、ロンドンで教育を受けたが、大半は生まれ故郷のチューリッヒで活動。初めリトグラフの職人に弟子入り、1914年、仲間と共同で印刷会社を始める。大戦後は20年頃まで舞台装飾を手がけ、ベルリンのマックス・ライハルト・ドイツシアターやチューリッヒ市立劇場などの装置をデザインする。1923年、バーガー・ケール社のために洗練されたポスターをデザイン。このなかには彼の真骨頂と評される親しみやすい「PKZ」のラベルも用いられている。彼が手がけたポスターは極めて多数にのぼる。

Bayer, Herbert
ヘルベルト・バイヤー 1900–85
オーストリア生まれ。1921年から25年までバウハウスで学ぶ。28年、同校卒業後に設けられた印刷・広告工房のマイスターとなる。簡潔で機能的なデザインにより、バウハウスのすべての印刷物にイメージの統一をはかり、バウハウス・スタイルを確立。また、単純な要素からなる書体「ユニバーサル」の開発や紙の規格化、大文字の廃止などにも取り組む。28年よりベルリンで広告、タイポグラフィ、展示デザインなどを手掛け、『ヴォーグ』誌のADを務める。29年パリで個展開催。38年、アメリカに亡命。ニューヨークで広告代理店のコンサルタントや広告、展示デザイン、絵画制作などに従事。46年より、アスペンでデザイン、建築、絵画に取り組む一方、「アスペン・ディベロップメント」のデザイン・コンサルタント、アメリカ包装会社CCAのデザイン部長を務める。

Beall, Lester
レスター・ビール 1903–69
カンザス州ミズーリ(アメリカ)生まれ。1917年からシカゴの美術研究所土曜教室に入り、そこでの努力が高い評価を得る。高校に進学してからも絵に対する情熱を失うことなく制作を続ける。その後、科学を専攻するためにシカゴ大学に入るが、美術史に専攻を替え、美術学校の素描と絵画のクラスも履修。26年、大学卒業を機に、シカゴでフリーのイラストレーターとして出発。不遇の時代にも美術学校の実習室から離れず、美術館のライブラリーに足を運んでは、フランスの美術雑誌が紹介する前衛的なグラフィックデザインに没頭した。このような刺激と素地を背景に、彼のグラフィックスタイルは大きく変化し、ダイナミックな展開をみせる。

Beck, Harry
ハリー・ベック 1902–74
イギリスの設計図技師。本名はヘンリー・チャールズ・ベック。1931年にデザインしたロンドン地下鉄路線図で知られる。ロンドン地下鉄会社に勤務するかたわら、余暇の時間に描かれたこの路線図は、垂直線と水平線、45度線のみで路線が描かれている。それまでの路線図が地理情報をベースにしていたのに対し、ベックの路線図は路線を構成する駅の前後情報や、接続情報などの路線情報に特化している。1932年に試験的に配布されたこの路線図は瞬く間に人気となり、33年以降、ロンドン地下鉄全体で全面採用された。地理的情報を排除し、路線情報という利用者が求める情報だけを伝えるベックの路線図は、オットー・ノイラートが手がけたアイソタイプと並び、インフォメーショングラフィクスの嚆矢とされる。1960年までロンドン地下鉄路線図をデザインしつづけた他、英国鉄道、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道、パリ地下鉄などのために路線図を手がける。また、1947年以降、ロンドン印刷学校(現在のロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション)でタイポグラフィと色彩デザインを担当した。長らく忘れられたデザイナーだったが、1990年代にロンドン交通博物館がベックの紹介コーナーを設けたことを機に、その業績が広く知られるようになった。

Behrens, Peter
ペーター・ベーレンス 1868–1940
ハンブルク(ドイツ)生まれ。画家、商業美術家として出発。1892年、ミュンヘン分離派に参加。1900年にヘッセ公に招かれてダルムシュタット芸術家村に参加、翌01年に自邸を設計して建築に目覚める。1903年から06年にかけてデュッセルドルフの工芸学校校長を務める。1906年からドイツの大手電気企業AEGに芸術顧問兼設計者として協力。同社の工場群の設計をはじめ、グラフィック、製品デザインなどすべてのデザインを手掛け、同社のコーポレートアイデンティティを確立した。AEG社のロゴは、同社の製品や印刷物に広範に利用され、コーポレートアイデンティティのさきがけとされる。1909年に設計されたAEGタービン工場は、最初の近代建築として名高い。1907年にはルマン・ムテジウスらによるドイツ工作連盟の創立に参画、その後中心的な役割を果たした。1908年から11年にかけて、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエらが前後して彼の事務所で働いた。1922年から27年にかけてウィーン・アカデミー教授、36年ベルリン・アカデミー教授を務める。

Bernhard, Lucian
ルツィアン・ベルンハルト 1883–1972
シュトゥットガルト(ドイツ)生まれ。独学でグラフィックデザイナーとなる。1905年より丸い文字によるフレーズと単純化したモチーフを組み合わせたポスターの制作を開始する。製品やサービスのイラストと企業名を組み合わせる明快かつ独特のスタイルは「プラカート・シュティル(Plakatstil[ポスター・スタイル])」と呼ばれ、ベルリン、ミュンヘンを中心にドイツ全体を席巻した。36種の書体をデザインし、20年、ベルリン美術アカデミーにおいて初のポスターデザイン教授となる。また『ポスター』誌の発刊に携わる。23年、アメリカに移り、ニューヨークで、ブルノ・パウル(Bruno Paul・ミュンヘンで活動していたアニメーション作家)、パウル・ポワレ(Paul Poiret・パリで活動していたファッションデザイナー)、ロックウェル・ケント(Rockwell Kent・ニューヨークで活動していたイラストレーター) らとデザイン会社コンテンポラ(Contempora・完全なる芸術作品を意味する)を設立し、協働でグラフィックデザインからテキスタイル、家具を手がける。これは、最初の国際的デザイン事務所であった。ビジュアルコミュニケーションを意識することで生まれたプラカート・シュティルは、モダン・デザインの胎動期における、重要な結節点であり、その後のベルンハルトが辿った道程もまた、デザイナーのその後のありようを示唆する先駆的なものだった。

Bill, Max
マックス・ビル 1908–94
ヴィンタートゥール(スイス)生まれ。1927年よりバウハウスで学んだ後、30年、フリーのデザイナーとしてチューリッヒで独立。建築、工業デザイン、広告などを手掛ける。44年、バーゼル美術館で「具体美術」展を開き、具体芸術の思想を唱道。49年にはスイス工作連盟の依頼でバーゼル見本市に「グーテ・フォルム」展を組織。50年、ウルム造形大学創立のためカリキュラムの立案から校舎の設計までを引き受け、初代学長になる。57年、チューリッヒにアトリエを再開。具体芸術の活動を通して絵画、彫刻をはじめ、生活用品、建築、都市に及ぶ多様な造形活動の統合による環境造形を実践。67–74年、ハンブルク造形大学で環境デザインの教授となり、71年、スイス連邦議会議員に選出される。79年、ヴィンタートゥール市文化賞。ドイツ連邦共和国功労十字大賞受賞。93年、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。

Bircher, Rudolf
ルドルフ・ビルヒャー 1911–2009
チューリッヒ応用美術学校を卒業後、見習徒弟を経て1936年に独立。グラフィックアーティスト、ポスターデザイナーとして活躍する傍ら、1960年から77年までチューリッヒ応用美術学校のグラフィッククラスで教鞭をとる。作品はチューリッヒ・デザイン・ミュージアム、MoMAをはじめ各国の美術館に収蔵されている。竹尾ポスターコレクションに収蔵されているアルヴァ・アアルトのポスター(1948)は最も有名な作品のひとつ。カール・ゲルストナーとともにデザインしたスイス航空のVI(1953)もよく知られている。

Ehmann, Eugen
オイゲン・エーマン 1887–1963
シュトゥットガルト(ドイツ)生まれ。1905年から09年にかけて、シュトゥットガルト王立美術造形学校で絵画を、シュトゥットガルト工科大学で建築を学ぶ。卒業後、ウルムの建築事務所でアシスタントを勤めた後、1910年にシュトゥットガルトで独立。1914年、第一次世界大戦により仕事依頼を失い、現代建築に関する博士論文の執筆を開始、18年に工学博士号を取得。併行してシュトゥットガルト王立美術造形学校で絵画を学ぶ(1924年まで)。終戦を迎えた1919年、博士論文『現代建築』を刊行。以来、絵画を中心に、建築家、著述家として活動。画家の仕事としてはフレスコ画が有名。竹尾ポスターコレクションが所蔵する1921年のポスターは、現代美術と商業美術を扱った先駆的ギャラリーとして有名なチューリッヒのヴォルフスバーグ・ギャラリーでの展覧会のために手がけたもので、同展の1等賞を受賞。1923年、シュトゥットガルト分離派の創設に携わり、最初の展覧会に出品。第二次世界大戦の勃発後、再び仕事の依頼を失い、宗教的傾向を深める。終戦後、戦争で罹災したフレスコ画の修復を行う。近年まで長く忘れられていた芸術家であった。

Eidenbenz, Hermann
ヘルマン・アイデンベンツ 1902–93
カナノール(インド)生まれ。オレル・フュッスリ美術研究所で学んだ後、1923年までチューリッヒ工芸学校でエルンスト・ ケラーに師事。彼の活動は、1932年から52年にかけてバーゼルの彼のスタジオ「アイデンベンツ・スタジオ」で行ったグラフィックデザインと教育活動、そしてスイスとドイツでのコンサルタント業務に二分され、グラフィックデザイン分野ではスイス派創成の基礎づくりに影響を与える。1953年から56年までは、ドイツ、ブルンズウィックの工芸学校でグラフィックデザイン科長を務め、55年からは、企業のためのデザインや広告コンサルタントにも従事した。伝統的な商業美術の系譜に立ったイラストレーション中心のポスターと、客観的な写真をストレートに扱った構成的ポスターを残している彼は、過渡期的、かつ先駆的デザイナーのひとりである。

Engelhard, Julius
ユリウス・エンゲルハルト 1883–1964
スマトラ(インドネシア)生まれ。ミュンヘンの美術アカデミーでフランツ・フォン・シュトゥック(1863–1928)のもとで学ぶ。画家、イラストレーターとして、『ユーゲント』『ジンプリツィスィムス』などの文芸誌やスポーツ紙、ファッション誌など多くの雑誌に関わる。新ミュンヘン・ポスター作家協会に所属し、ポスター作家としても活動。第1次世界大戦前後のドイツを代表するポスター作家のひとり。革命期ロシアの影響のもと、左派のデザイナーとしてバイエルン・レーテ共和国のために制作した政治ポスターも有名。グラフィックデザインを扱う大きなプロダクションを経営し、国際的にも名声を博した。 

Francis, Bernard
ベルナール・フランシス 1900–79
アール・デコ期のフランスを代表する商業美術家。1917年から19年にかけて、地元のマルセイユ美術学校で学ぶ。アーネス・ローランのスタジオでアシスタントを務めた後、1920年からパリのエコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)で学ぶ。1927年にパリで独立、出版物のイラストレーターにはじまり、やがてポスターを中心に数々の商業美術を手がける。1929年にはジャン・カルリュ、A.M.カッサンドル、ポール・コラン、シャルル・ルポらと現代美術家連盟に参画。1945年、RTF(フランスのテレビ・ラジオ放送局)の広告部門の長を務める一方でフリーランスとしての活動を継続し、様々なポスターを手がける。独特の気品に溢れるアール・デコ調のイラストレーションにより、また写真の積極的な利用によって、そのデザインはカッサンドルをはじめとする同時代人とは一線を画している。1954年よりAGI会員。

Haak, Kenneth
ケネス・ハーク *1923
カリフォルニア州グレンデール(アメリカ)生まれ。兵役を終えた後、ロサンゼルスのアートセンター・スクールで絵画とグラフィックデザインを学ぶ。卒業後、ニューヨークで独立。1949年頃から手がけるようになったニューヨーク・タイムズ紙のためのキャンペーン広告のシリーズ・ポスターは、企業のイメージづくりのための力強いスローガンの連作により、見る者の感性と知性に訴えかける新しい手法を示している。そのストレートかつ情感に溢れる表現は彼の名声を高めた。後に、独学でファッション写真を追究し、伝統性と現代性を併せ持った写真表現を確立する。彼の写真は、アメリカ版『ヴォーグ』『ハーパース・バザー』『プレイボーイ』『エッセンス』『インタビュー』『メンズ・バザー』などの各誌を飾った。

Käch, Walter
ヴァルター・ケッヒ 1901–70
オッテンバッハ(スイス)生まれ。アーラウでリトグラフを修行した後、チューリッヒ工芸学校のエルンスト・ケラーの教室でグラフィックデザインを学ぶ。1921年から22年にかけて、ミュンヘン工芸学校でF. H. エームケの助手を経て、25年から29年までチューリッヒの母校でグラフィックデザインと木版を教える。一時、教職を離れてフリーのグラフィックデザイナーとして活動するが(29–40年)、40年よりリタイアする67年まで、再び母校のチューリッヒ工芸学校でレタリングを教える。その間、フリーランスの活動も併行。

Klinger, Julius
ユリウス・クリンガー 1878–1950
ウィーン(オーストリア)生まれ。画家、グラフィックデザイン、ポスターデザインなどの分野で活動。1894年、ウィーンの美術工芸学院で学ぶ。1895年、ウィーンでファッション誌のイラストレーションを手がける。1896年にミュンヘンに移り、雑誌『ユーゲント』のイラストレーターを務める(1902年まで)。1897年ベルリンに移り、数多くのポスターを手がける。とりわけ美術ポスター専門印刷所兼広告会社のホラーバウム&シュミット社のために制作したポスターにより、ルツィアン・ベルンハルト、ハンス・ルディ・エールト、エルンスト・ドイチュ、ユリウス・ギプケンスらと共に、ベルリンで最も重要なポスター作家の一人として認められる。1918年、ウィーンに戻って自身のスタジオを開設。紙巻き煙草会社TABUのために、ビルボードから新聞広告、商品パッケージまでを一貫してデザインするキャンペーンを展開して名声を博す。1920年、ベルトルド社から彼のデザインした活字書体「Klinger-Antiqua」が発売される。1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻にともない、ユダヤ人であったクリンガーも迫害を受ける。1942年、ポーランドからロシアに亡命を図るが拒絶され、消息を絶つ。強制収容所で死去したとされる。

Koeke, Henning
ヘンニンク・ケーケ 1909–98
ハンブルクで活動していた商業美術家。1936年にベルリンで開催されたドイツ商業美術展で注目される。ハンブルク・アメリカ小包輸送株式会社のためにポスターを手がけたことで知られる。竹尾ポスターコレクションに収蔵されているポスターは、特に有名な作品。

Kulagina, Valentina
ワレンチーナ・クラーギナ 1902–1987
1919年より国立自由工房(スヴォマス)、国立高等芸術技術工房(ヴフテマス)で学び、エル・リシツキーやグスタフ・クルツィス、アレクサンドル・ロトチェンコらロシア構成主義のデザイナー/アーティストの知己を得る。スヴォマス在籍中よりクルチスのフォトモンタージュ「ダイナミック・シティ」のリトグラフ制作に協力。1923年にはクルチスと結婚。1928年、クルチスらとグループ「10月」の結成に参加し、メンバーとなる。1930年、「10月」のグループ展に出品。また、1931年にはベルリンの「国際フォトモンタージュ展」に出展。しかし、クルチスが強制収容所に送られた後は制作活動から離れる。

Lissitzky, El
エル・リシツキー 1890–1941
スモレンスク(ロシア)生まれ。1909年からドイツのダルムシュタット工科大学で建築と工学を学んだ後、14年に帰国。モスクワでドラフトマンや芸術活動、本の装丁などに携わった後、19年、ヴィテブスク美術学校の教授に就任。ここでカジミール・マレーヴィチに出会い、シュプレマティズムの影響のもと、作品「プロウン」の制作を始める。国家の主導のもと、1923年にプロパガンダの為の「フォトモンタージュ研究所」をグスタフ・クルツィスと共にモスクワに設立。この研究所で、視覚言語としてのフォト・モンタージュの利用方法を確立。以降、ベルリン・ダダの系譜に連なる表現主義的フォトモンタージュとは別の文脈で、政治改革のための表現として展開される。1920年以降は、幅広く建築やタイポグラフィに取り組み、ドイツを中心に雑誌のデザイン、展覧会の構成などを行う。『クンストイズム 1914–1924』(アルプとの共著)をはじめ多くの著書を出版。1930年から死の前年の40年まで国家宣伝誌『ソ連建設』のために働く。

Matter, Herbert
ヘルベルト・マター 1907–84
エンゲルベルク(スイス)生まれ。ジュネーブの美術学校で絵画を学んだ後、フェルナン・レジェ、アメデエ・オザンファンらに師事。写真とグラフィックデザインに関心を持ち、1929年、ドゥベルニ・ペイニョ活字会社に就職。ここでカッサンドルやコルビュジエらと協働、雑誌『ヴォーグ』の仕事に携わる。1932年、スイスに戻り、同観光局のために近代的なボールドタイプのサンセリフ書体とモンタージュの技法を駆使したポスターを連作。1936年、ニューヨークにわたり、フリーランスのデザイナーとして活動する一方、写真家としてファッション雑誌の仕事をこなす。1940年代にアメリカ包装会社CCAのポスター・デザイナーを務めた後、60年代半ばまでノール家具会社の広告デザインとコンサルタントを務める。1950年、小児麻痺撲滅の国際ポスター・コンペで1等受賞。1952年から76年までイエール大学で写真の教授。1953年から68年までグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)のすべての印刷物のグラフィックデザインを担当。

Müller, Carl Otto
カール・オットー・ミューラー 1901–70
コブルク(ドイツ)生まれの画家、商業美術家。エルンストタールでガラス工房を営む家に生まれ、1918から24年にかけてミュンヘン工芸学校とミュンヘン工芸アカデミーで学ぶ。1927年に独立、41年まで商業美術家として活動。竹尾ポスターコレクションが所蔵するフォエブス劇場のための映画ポスターはこの時期に手がけられたもの。1927年、ミュンヘン美術家協会に参加。翌28年にはミュンヘン美術家連盟にも参加し、後に代表を務める。1933/35年、ナチスドイツの迫害を受けるが41年に戦時画家として徴兵されるまで商業美術家として活動。以降、画家としての活動に専念、風景画、植物画を描く。1945年、前年からの爆撃により住居を失い、アイヒシュテットの副地区管理者に任命されてドナウ川河畔の街アルトミュールタールに移住。戦後も留まり、両親の営むガラス工房の拡大に努めつつ、画業を継続し、アルトミュールタールのセザンヌと呼ばれた。

Nathan Garamond, Jacques
ジャック・ナタン・ギャラモン 1910–2001
パリ生まれ。本名ジャック・ナタン。パリ国立装飾美術学校で学ぶ。建築雑誌『今日の建築』(L’Architecture d’Aujourd’hui、1930年創刊・現在も存続)の編集長を務めた後、デザイナーとして独立。トレードマーク、パッケージ、エディトリアル・デザイン、イラストレーション、ポスター、コーポレート・デザインを手がける。ドイツ軍によってパリが占領された第二次世界大戦中にギャラモンの名を姓に加える。戦後、パリ国立装飾美術学校、グラフィックアート高等専門学校で教員を務める。1951年、ジャン・コラン、ジャン・ピカール=ルドゥー、フリッツ・ビューラー、ドナルド・ブランとともに国際グラフィック連盟を創設。

Sandberg, Willem
ウィレム・サンドベルフ 1897–1984
アメルスフォールト(オランダ)生まれ。グラフィックデザイナー、キュレーターとして美術館の展示とグラフィックを数多く手がけた。アムステルダム州立美術アカデミーで学んだ後ウィーンに移り、アイソタイプの創始者として高名なオットー・ノイラートに協力。やがてノイラートとともにユトレヒトに移り、後に独立。彼のキャリアは出版デザイナーとしてはじまったが、オランダ郵便局とアムステルダムのステデリック美術館から依頼を受けたことで大きく展開した。特にステデリック美術館では、デザイナーとしてだけでなく、キュレーターとして展覧会企画から手がけた(1937–41)。彼のキュレーターとしての活動は、ナチス・ドイツの占領下でも継続した。この間に彼が創造した実験的なタイポグラフィのスタイルは、ストレートな表現でありつつも手仕事の持つ温かみが共存する独特の興趣にあふれる。パリのポンピドー・センターやエルサレムのイスラエル美術館のディレクターやアドバイザーも務める。ヴェルクマン賞(1959)、エラスムス賞(1975)など受賞多数。1952年よりAGI会員。

Stankowski, Anton
アントン・シュタンコヴスキー 1906–98
ゲルゼンキルヒェン(ドイツ)生まれ。1926年から27年にかけてエッセンのマックス・ブルヒャルツのもとで絵画を学んだ後、そのまま29年までブルヒャルツがヨハネス・カニスと共同経営していた広告代理店「広告館(Werbe-bau)」に勤務。この間に手がけたフォトモンタージュとニュー・タイポグラフィの手法を用いた広告デザインが注目を集め、1930年にスイスの広告代理店マックス・ダーラング社に入社。翌31年までの短い期間だったが、同社に務めていた後のスイス派の旗手リヒャルト・パウル・ローゼとハンス・ノイブルクに影響を与えた。37年までチューリッヒでグラフィックデザイナーとして働く。この間にマックス・ビル、ヘルベルト・マターら、スイスの主要なデザイナー、アーティストと親交を持つ。またこの時期、写真やフォトモンタージュなどの技術を研鑽、写真と絵画は、構成主義からの影響とあいまって彼のタイポグラフィとグラフィックデザインに活かされる。1937年、シュトゥットガルトに移り、フリーランスのデザイナー、アーティストとして活動。1968年、ベルリン市より包括的なデザイン依頼を受け、「テクトニック・エレメント」と称するデザインを開発、建築物のサインから、市中のサイン、刊行物にまでデザインの一貫性を図る。また、ミュンヘン・オリンピックへの協力をはじめ、各種催しへの参画も多い。

Stenberg Brothers
シュテンベルク兄弟 1899–1982
ウラジミール(Vladimir, 1899–1982)とゲオルギー(Georgii, 1900–1933)の兄弟。スウェーデン人の父とロシア人の母のもと、モスクワ(ロシア)に生まれる。父の後見のもとで教育を受けるが、兄のウラジミールの病気により、兄弟で同じクラスに在籍。1912年から17年までモスクワのストロガノフ美術学校で、つづいて国立自由工房(スヴォマス)で研鑽を積む。1922年から兄弟で舞台デザインに従事(31年まで)。併行して活動領域を広げ、1928年より「赤の広場」の装飾を手がける。1925年、パリのアール・デコ展で金賞を受賞。300にのぼる映画ポスターをデザインした。1925年に最初の映画ポスター展を組織したことでも知られる。1933年に弟ゲオルギーが交通事故で急死した後もウラジミールは映画ポスターのデザインを継続し、47年にはメーデーの催事用に赤の広場の設営を行う。

Sutnar, Ladislav
ラディスラウ・ストナー 1897–1976
ピルゼン(チェコスロバキア)生まれ。プラハの応用美術アカデミーで学ぶ。第1次大戦の兵役を経て、1923年に開催されたチェコスロバキア・ポスター・アート展のポスターコンペで選出され注目を集める。1926年より出版社で美術編集に従事、併行して雑誌編集やプロダクトデザイン、グラフィックデザインを展開。1933年から7年間、プラハにあるグラフィックアートの学校長を務める。1939年、ニューヨーク世界博でチェコスロバキアのチーフデザイナーとして渡米したのを機にアメリカに留まる。1951年より自身の会社を主宰。1961年、自ら企画・デザインを務めた巡回展覧会「ビジュアルデザイン・イン・アクション」をプロデュース(68年まで巡回)。同年に同名の著書を刊行。書籍・雑誌、広告、VI/CI、プロダクト、展示など広汎な領域でデザインを展開。1976年、ニューヨークの病院で死去。1979年、ヤン・チヒョルト、ウィリアム・アディソン・ドゥイギンスらとともにニューヨークADCの殿堂入り。

Tschichold, Jan
ヤン・チヒョルト 1902–74
ライプツィヒ(ドイツ)生まれ。書体デザイナーだった父の影響で書体に興味を持ち、ライプツィヒの装本とグラフィックアートのアカデミーでカリグラフィを学ぶ。1923年、ワイマールのバウハウス展を見て深い感銘を受ける。1925年、タイポグラフィに大きな影響を与えた彼の著作が始まる。数多くの論文や著作を通じて、広く前衛的なアーティストや印刷界に「ニュー・タイポグラフィ」の原理を紹介。表現の省略、サンセリフの書体と非対称の構成を主張する。また早くから、彼は広告のデザインツールとして写真の重要性を認識。1935年頃には再び伝統的なスタイルに戻り、「ニュー・タイポグラフィ」を絶対視するものではなく、二者択一のひとつとみなした。1947年、英国に招かれ、ペンギン・ブックのタイポグラフィを刷新する。1954年、AIGAメダリストに選出。


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アートアーカイヴセンター | 2018年1月9日


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